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待望の寺尾紗穂さんの金沢公演。
金沢でライブができるかも、とおっしゃっていたのが「お天気雨」がFM石川でパワープレイされていた頃だからいまから6年前。
待望の金沢公演でした。


ひとことで言うなら、「よかった」。
やっぱり寺尾さんの声はうつくしくて。鳥肌が立ちました。
声とピアノ。
このふたつだけで、めくるめくようなきれいな世界を見せてくれます。

また、会場もすごくよかった。
オヨヨ書林という古本屋が会場だったのですが、壁一面が本棚で、無数の本に囲まれた中、アップライトで弾き語りをするその姿は、まるで寺尾さんの書斎にお邪魔しているかのような雰囲気。
なんていうか、絵になってた。
ライブが始まってすぐのMCで「リハーサルをしていたら、不意に背表紙の単語が目に飛び込んできてその世界に引っ張られてしまう」と寺尾さんがおっしゃっていて、確かに背景として溶け込んでいた単語が、ライブ中急に意味を伴った単語として目に飛び込んでくることがあって、曲や詩とは全然関係のないその単語が妙にちぐはぐだったり逆に意味深だったりして、ライブ会場の空間をより深く押し広げていくようなふしぎな感覚がありました。
ライブハウスやホールといった音楽を奏でることに特化した会場ではなかったけれど、これはこれでとてもよかった。
やはりライブはその空気感というか、雰囲気含めてのナマモノですからね。まるで日常のようで完全な非日常という、あの空間に呑まれてしまいました。

今回の公演は「楕円の夢ツアー」の最終公演という位置付けだったので、『楕円の夢』の収録曲が中心で、その他の楽曲がそこに混ざってくるのかな、と思っていましたが、ふたを開けてみればそんなことはありませんでした。
新旧、CD未収録、カバー、童謡等各種取り混ぜた、実にバラエティに富んだ内容でした。いろんな歌を聴くことができてよかった。

はじめて聴く曲もよかったけれど、「反骨の人」と「アジアの汗」を聴けたのがとてもうれしかった。
そもそも僕が寺尾さんのことを知ったのは、ネットラジオでたまたま「dream train」を耳にしたからで、もう、一瞬でその音の虜となったのでした。そして『愛し、日々』を買って「dream train」以上にこの「反骨の人」に惹きつけられました。
ひどく清冽な印象。
大きなものに立ち向かう勇気と、その無謀さを嗤うことなく愛する勇気。
なんていうか、見た目や表面に映るおキレイさではなく、泥にまみれたものの持つ、見た目や表面を突き抜けた先にある芯のうつくしさを教えてくれるような楽曲です。

そして「アジアの汗」。
ポップで明るい曲調に騙されそうになりますが、この歌は怪我をして生活保護を受ける元土方のおじさんと、そのおじさんが語るかつての同僚である外国人労働者たちのお話で、高度経済成長だなんだと浮かれていた日本の影の部分を浮き彫りにする詩に容赦なく心をえぐられます。
しかしそれでいて湿っぽく暗いわけではなく、そうした影の部分をあっけらかんと歌いあげることで突き抜けた陽気さすら感じられます。
かといってそれは本当に陽気なわけではなく、冷静に考えてみれば悲愴な状況なのですが、ここで歌われる彼らの姿には生き生きと躍動する「生命」が感じられ、悲壮感にあふれています。
それはもはやまぶしさすら感じるうつくしさで、どうしようもなく心を動かされます。
本当に、この歌を生で聴けるなんて。
泣いた。
泣いてしまいましたよ。


そしてこの「楕円の夢」ツアーは寺尾さんとともにソケリッサ!というダンスパフォーマンス集団が一緒に回っています。
第一部は寺尾さんオンリーで、第二部としてこのソケリッサ!のパフォーマンスが加わった形となっていました。
ダンスを見る経験がほとんどないものではじめはぽかんとしましたが、コミカルなような不気味なような、なんだかふしぎな動きにいつの間にか目は吸い寄せられていました。
エグザイルは歌をうたう二人だけでほかの人たち要らなくね?とか思っていましたが、歌とダンスでひとつのパフォーマンスだというのも、なるほどまぁねぇと思い直す経験でした。

今回のこのパフォーマンスを見てはっとしたのですが、こう、右端で歌をうたう寺尾さんがいて、その左側に踊る男たちがいて、こう、そのときの空気というか雰囲気を目前にして、ああ、原始宗教ってこんな風に始まったのかもなぁと思いました。
以前『歌うネアンデルタール』という本で、言語があってそこから歌が生まれたのではなく、歌があってそこから言語が生まれたのではないか、という説が提唱されていました。
そこでは触れられていませんでしたが、踊りも似たようなものじゃないかと思います。音楽を聴くと自然に身体が動く、音楽がなくても自然の中でリズムを見出して拍子を取る、そういったことが踊りの起源なのではないでしょうか。

歌をうたう人がいて、それを聴いて踊る人がいる。

それは言語が生まれる前から連綿と続いてきた、理屈をはるか遠くに追いやって行われる本能の発出のようなもので、それは祈りにとても近い性質なのではないかと思います。というか思いました。

だとすると、古代の巫に女性が多かったのもなんとなく納得がいくなぁ、と。
これは個人的な見解なのですが、男声は地に轟き女声は天に溶けるようなイメージがあります。歌が祈りであるとすれば、女声が天の神に通ずる手段として選択されるのもひとつの道理なのかな、と。
そうすると、古事記に描かれるイザナギとイザナミが天と地に別れるのにも納得がいくというか。
女声が天に昇りイザナギに届き、男性が地に轟きイザナミに届く。お互いの声が聞こえるようになっているんじゃなかろうか。

うん。
なんだか話が明後日の方向に飛びましたが、このときたまたま『「神道」の虚像と真実』という本を読んでいて、ライブ中のMCでも神社や地獄、山姥の話が出てきたもので、少し思考が宗教寄りになっていたのかもしれません。
しかし、寺尾さんの歌が(や、ここで「寺尾さんの」と指定する必要はないのかもしれませんが)ある種の祈りであるという点は、あながち間違いでもないのかな、と思ったりもします。
直感は直観につながっているものですよ。あなどれない。

まぁ、ライブの感想以外にもいろいろ書きましたが、いろいろ言葉にしてみても結局は「よかった」という一言に集約してしまいます。どんなに修飾を重ねたものよりも、心を満たしてくれるたった一言の方がふさわしいような気がします。
最高に幸せな時間でした。
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