監督:ピーター・カッタネオ
2005年/イギリス・オーストラリア

11歳の少年アシュモルにはひとつ悩みがある。それは、9歳の妹ケリーアンのこと。彼女には“ポビー”と“ディンガン”という大切な友達がいる。だけど、彼らは妹の“空想上の”友達なのだ。そんなある日、ケリーアンが「ポビーとディンガンがいなくなった!」と言いだした。心配のあまり病気になったケリーアンを勇気づけようと、アシュモルはひとりでポビーとディンガンを探し始める。そんな彼のひたむきな思いは、やがて小さな奇跡をもたらしていく。
信じること、目に見えないものを大切にすること、そういうお話でした。
こういうタイプのお話は、周囲の無理解に遭いながらも、ひたすらまっすぐな子供を描くことで、ほんのちょっぴり周囲を妥協させて丸く収める、という描き方が多いです。
今作もそういう感じなのですが、なによりすばらしいと思ったのは、幼い妹の純粋な気持ちにすらきちんと決着を与えているということ。
安っぽい“奇跡”が起こって、周囲が理解を示すのではないのです。目に見えないものを信じることで、目に見えないものの美しさと大切さを示しつつ、それをまったく損なうことなく現実に誘導してやるのです。
なにも失うことなく。
なにひとつとして、取りこぼすことなく。
あと、妹の空想癖を苦々しく思いながらも妹がかわいくて仕方がないお兄ちゃんと、そんなお兄ちゃんが大好きな妹の兄妹愛が全編を通してあふれていて、少し気恥ずかしく、なによりまぶしくてたまりませんでした。
裁判の後半から先は涙が止まらなくて大変でしたが、ポビーとディンガンの葬儀の場面は本当にすばらしかったです。
アシュモルがスピーチで「ポビーとディンガンは生きたのです」と言ったとき、ああ、もう駄目だ、と思いました。我慢するのは無理だ、と。それまではそれなりに我慢していたわけです。涙を。それでも、こらえてもあふれてくるものが流れ出していただけで。
「生きた」ですよ。
ケリーアンにしか見えず、ケリーアンの空想の友達だったポビーとディンガン。このふたりは、自らの葬儀にいたって、はじめて実体を得たのです。つまり、「死」を承認されることでしか実体を得ることができなかった、ということです。
なんて淋しく、悲しいことでしょう。
しかし、架空の人物であるふたりの死は、ケリーアン、アシュモル、ふたりの両親、そして町の人たち、全員の心に深く浸透していきます。紛うことなき、確かな存在として。
なんてあたたかく、ほほえましいことでしょう。
このふたつの感情がごっちゃごちゃになって、もう、どうしようもなくなってしまいました。
目に見えないもの、兄妹愛、家族愛、本当にうつくしいものとはなんなのか。
至極真っ当で、至極すばらしい作品です。
ポビーとディンガン
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