監督:佐藤佐吉
2005年/日本

ちょっと未来の東京。町の片隅の消火器工場で働くアフロのフジオとハゲのミツオは、毎日柔術の練習に明け暮れていた。柔術の師としてもミツオを慕うフジオ、そんなフジオをかわいがるミツオ。2人は兄弟のように親友のように、絶対的な関係で結ばれていた。そんな2人の前に現れたのは、産業廃棄物のゴミ山“黒富士”から現れてきたゾンビたち。ゾンビはどんどん増殖し、ついにはミツオにまでその牙が…。
浅野忠信×哀川翔、夢の共演!
しかもアフロとハゲ。なんなのそれ。すげーって、いやほんとに。
これは、男の子にはたまらない作品ですね。
設定やノリがバイオレンスでグロテスクでいかにもB級といった風情なことや、格闘技の描写が結構本格的なこととか、もちろん、そういうのも男の子にウケる要素ではあると思うんですが。
なにより、フジオとミツオの関係がたまらない。
兄弟のようで親友のような師弟関係。フジオにとって、ミツオはまさに神にも等しい存在です。
なによりかっこいい頼れる兄貴分と、全幅の信頼を寄せてくるかわいい弟分。
兄貴属性の人も弟属性の人もどちらもが羨望を持たずにはいられないのです。
全体的にバカでどうしようもない雰囲気ですが、決してバカでどうしようもない作品ではありません。あくまでもそれは表面だけのことで、しっかり見ていけば、きちんと作られていることが分かります。
ゾンビに噛まれたミツオが、フジオに別れを告げる場面。
「さよならだけが人生だ」、と言い捨ててミツオは去るのですが、言うまでもなくこれは井伏鱒二の「花に嵐の例えもあるさ さよならだけが人生だ」という名訳に依ります。
ハゲかっこいい……と思わず見とれてしまいます。このシーン。
また、ミツオがフジオに
「昔お前にはなにかあるって言ったよな。ありゃ嘘だ。お前にはなにもない。なにもないからこそ、なんでもつかめる可能性があった」
と告げる、この台詞。
なにかを持っているということはなにかに執着しているということと同義です。なにも持っていないということは執着を持たずにいるということ、なんでもつかめる可能性があるということはその瞬間瞬間で最適解を求められるということであり、なによりいまを大切に生きるということと同義です。これってば仏教の考え方と等しいですよ。
他にも、大人になりきれない大人や、家族とはなにか、ということも匂わせてきます。
うーん、実に上手い。雰囲気も見た目も究極にバカっぽいからこそ、余計に上手い。
B級バカ映画のフリをしつつも、実に奥深い作品です。
なにはともあれ、アフロ浅野とハゲ哀川を見てくださいよ。
めちゃくちゃ似合ってて、それがちょっと怖い。
東京ゾンビ
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