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監督:宮本幸裕
脚本:虚淵玄

魔法少女は絶望から救われたのか――
“円環の理”に導かれて、少女たちの新たな物語が始まる

鹿目まどか。かつて、幸せな日々をおくっていた平凡な一人の少女が、その身を賭してすべての魔法少女たちを残酷な運命の連鎖から解き放った。
まどかへの想いを果たせぬままに取り残された魔法少女・暁美ほむらは、彼女の残した世界でひとり戦い続ける。
「懐かしいあの笑顔と再びめぐり合うことを夢見て――」

鹿目まどかは世界を変えた。
その後の世界で、魔法少女が見るのは、希望か、絶望か。




テレビでアニメを見たのはもう一年も前のことですが、いまだにあのおもしろさは鮮明に覚えています。
テレビ版を再構成した前後編は改めて見る気はしませんでしたが、完全新作となる『叛逆の物語』は絶対に見たいと思っていました。

この作品の魅力は、かわいらしい絵柄と容赦のないストーリーのギャップであり、希望と絶望のギャップであり、「魔法少女」とSF的設定のギャップであったと思います。
ギャップ。
意外性と言い換えてもいいです。
しかし、意外性によって視聴者の目を引き付ける手法は、その意外性のため――つまり、意表を突くことだけを目的とした仕掛けだと、薄っぺらくてとても見ていられないものになってしまいます。
その点、「魔法少女まどか☆マギカ」はおそろしいほどしっかりと作りこまれた世界の中で、その設定の見せ方を工夫することでギャップを演出していました。だからこそ、見終わった後に途方もないカタルシスを味わうことができました。

で。

今回の映画はどうだったのか。

かわいらしい楽曲と映像でつづられるオープニング、勢ぞろいする魔法少女たち、そしてまさかの「変身シーン」。
冒頭から、もう、まさに「魔法少女」の名に恥じないポップさとかわいらしさに満ち溢れた映像となっていました。
ああ、もう、これ明らかにフェイクだ、という違和感を隠そうともせず、むしろ違和感を垂れ流しながら物語は続き、とうとうほむらがこの「世界」の真実に到達してしまいます。

この世界は、魔女の作る結界に酷似している。

円環の理のおかげで過去現在未来、全宇宙から存在が消えてしまったはずの魔女。
それがなぜ? というところで、キュゥべえがネタばらし。
全宇宙で唯一魔女のことを記憶するほむらの話を確かめると同時に、円環の理を観測するため、ほむらを外部から完全遮断するフィールドで覆い、混濁したソウルジェムがどのように変化するのか実験をしているのだ、と。
ほむらの予想通り、この世界は魔女の結界だったわけです。ただ、想定外だったのは、その魔女が自分自身だった、ということ。

しかし、見ているこちら側としては、のっけから当たり前のようにまどかがいて、さやかがいて、しかも「あの」魔女があろうことかマミさんの親友という、あり得なさすぎるシチュエーションだったので、ある程度想像はつきました。ほむらが自分自身に告げるように、そもそも「鹿目まどか」が存在しているということは、この結界を作った魔女が「鹿目まどか」を知っていなければならず、そんな存在は全宇宙の中でほむらしかありえないわけです。
というわけで、この第一段階での意外性はそれほど強くもなかった。
暴かれるべくして暴かれた、というような予定調和という感じの方がしっくりきました。

むしろここからが本番なんだろーなー、なんか仕掛けてくるに違いないと思ってしまいます。

キュゥべえの目的が円環の理の観測、そして制御=支配にあることがわかれば、ほむらはそれに抵抗します。
テレビシリーズのときから、一貫してほむらの行動原理は「まどかを救うこと」ただそれ一点のみですから、当然のなりゆきです。
円環の理は魔法少女が魔女化する際にあらわれ、少女の祈りが希望から絶望へと転化することを防ぎ、魔法少女の魂を導く概念です。
つまり、ほむらが魔女となり、フィールドを突き破って外部と接触してしまったとき、円環の理がほむらの魂を救済に訪れるはずです。それを防ぐにはどうしたらよいのか。
答は簡単で、円環の理が救済に訪れる前に死んでしまえばいい。
つまり、魔法少女であるかつての仲間たちによる「討伐」をほむらは願ったわけです。

そうなってくると困るのはキュゥべえで、それではせっかくの実験の意味がなくなってしまいます。
そこで、キュゥべえはまどかに「本来の力と役目を取り戻す」よう働きかけます。
そんな中、魔法少女たちはほむらを救済し、尚且つキュゥべえの野望を打ち砕こうと力を合わせます。

それぞれの願いのため、自らの消滅を願うほむらと、それを阻止したいキュゥべえ。
ほむらとまどかを救うため戦う魔法少女たち。

ここでくっきりと二重三重の対立構造が確立され、物語とキャラクターの心情に深みが増し、どう転んでも誰かが傷つくという状況が構築されます。
ギャップ、意外性という意味ではあまり大したことはありませんでしたが、緻密な設定の上で、それを破綻させることなくその設定を転がすことで物語を推進するという、まぁ、「まどマギらしい」構図が展開されたわけです。


結局、キュゥべえの作ったフィールドは破壊され、まどかは円環の理としての自分を取り戻し、ほむらの救済に向かいます。
生き残った(というか、そもそも生きていた)のはマミさんと杏子の二人だけで、テレビシリーズ中に魔女と化していたさやかとなぎさは円環の理の一部として、まどかは円環の理そのものとして、そしてほむらは濁り切ったソウルジェムを抱え死を目前に控えた魔法少女として現実世界に顕れます。
ああ、ようやくほむらの修羅のようだった人生にも終止符が打たれ、まどかによる救済が訪れるのかと思った、その瞬間。

ほむらが円環の理から人間としての「鹿目まどか」の部分のみを分離し、その力の一部を奪いとるという暴挙に出ます。
「え?!」という感じで、目が点状態。
なんだこれ……と唖然としていると、ほむらが真っ黒のソウルジェムを前にこう言い切ります。

「ソウルジェムが濁ったのは呪いなんかじゃない。希望よりも熱く、絶望よりも深いもの……愛よ」

と。
ここで、さらにポカーン。
愛? 一介の魔法少女に過ぎないほむらが、世界の摂理を壊し世界を改変するほどの大事を成し遂げられたその理由が、愛?
希望でも絶望でもなく、愛は愛だから愛なのよ。愛は尊いの、愛は強いの、愛はすべてを凌駕するの!
ってことなんだろうか……。

なんか、すごいがっくりきた。
まどかのことを思い、まどかを救いたい、まどかにもう一度会いたい、ただその一心の果てにたどり着いた結果がこれなのはわかりますし、理解もできます。
しかし、そのための理屈はもうちょっとしっかりつけてほしかった。


結果として、
・円環の理のシステムは存続し魔女は過去現在未来の宇宙から排除されたまま。
・まどかは普通の人間として生まれ変わる。
・世界改変時ほむら救済のため円環の理から一時離脱していたさやかとなぎさは円環の理に戻ることができず、やはり普通の人間として生まれ変わる。
・マミさんと杏子に至っては世界改変時に記憶を失い、普通の人間として生きている。
・救済され消滅するはずだったほむらは、概念であり『神』でもあったまどかに叛逆した存在として、『悪魔』(自称ですが)として存在するも、普段は美滝原中学に通う中学生となる。

世界はまどかの犠牲を抜きに再改変され、依然として魔法少女たちの祈りが希望から絶望へと転化することは防がれ、誰も命を失うことなく生きている。

表面だけをなぞってやれば、れっきとしたハッピーエンド。
しかし、ほむらは「まどかを救う」という自らの願いを見事叶えるも、まどかの意思を踏みにじったという罪悪感に苛まれ続けることに。
結果よければすべてよし、なんて言葉がうすら寒く響くような結末。
エゴを押し通すことは、果たして幸せなのか? エゴを押し通した先に、幸せなんて訪れるのか?
という痛烈な命題を残したまま、物語は終結します。

痛烈で痛みを伴う命題を提示した良作だと思うのですが、だからこそ、やはり「愛よ」が大いにひっかかる。
あそこは素直にほむらは救済され、最愛のまどかと再会を果たす。
遺された二人は「魔法少女」として生きること=自らのエゴに囚われて生きることについて言葉にできない思いを噛みしめる。
みたいな終わり方でよかったんじゃないかなぁ、と思わずにはいられません。

作中でさやかがほむらに向かって「自分の時間に逃げ込むな」と忠告するシーンがありますが、あのセリフって、つまりはこの作品のテーマでもあるわけですよね。
ほむらの能力は「時間操作」。だから時を止めたり戻したりすることのできるほむらは、本質的に独りなわけです。
そして魔女化し、作り上げた結界内の箱庭世界。これはほむらが(無意識下かもしれませんが)望んだ理想の世界であり、完結した世界でした。
このほむらの一連の行動や望みって、つまるところ引きこもりの思考様式だと思うんです。辛い現実から逃げ、自分の世界で完結する。
さやかは、ほむらが箱庭世界の真実に気づきかけたとき、「別にこのまま都合のいい夢の世界にずっといたっていいじゃないか」というようなことを言います。誰も不幸にならず、自らのエゴによって支えられた完璧な世界。
しかし、ほむらはその甘美な誘惑を振り切って、現実を見つめることを選ぶんです。
その果てに、自らの消滅すら願うんです。
それなのに、最後の最後で(自称)悪魔化し改変した世界は、愛する人を、彼の人の意思を無視してまでつなぎとめた世界です。
なんでそこでまた箱庭世界を作っちゃうの?
なんか納得できない。どこかボタンの掛け違いをしているような違和感が残ります。

自分の読解力が足りないだけなのか、「愛」に込められた意味と担わされた役割がいまいち理解できない。
物語が集約し、転換する極点なだけに、やはりここをもうちょっとどうにかしてほしかったなぁ、と思いました。



懐に余裕があれば、テレビ版と劇場版のDVDを買ってじっくり見返したくなりました。
きっとしっかり見ていけばなにかしらの回答は落ちているはずなのになぁ。


劇場版 魔法少女まどか☆マギカ[新編]叛逆の物語
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