公式サイトにある
自由をつかむために彼女に残された演奏時間は、
たったの4分間だった──
というコピーから、大衆受けの感動狙いかと思っていたら。
あらあらまあまあ、とんでもなかったですよ。
ていうかまんまドイツ映画じゃーん。
どこの映画か、くらい事前に知っとけよ、という話ですね。
この作品を見ていると、『真夜中のピアニスト』を思い出しました。
『真夜中〜』では芸術と暴力を対立するものとして描き、壮絶な一騎打ちの後に芸術が一人勝ちしていました。
どんな暴力も、芸術の前では等しく無力になるしかない。
なるほどどうして、多少なりとも芸術に親しみを覚えるものとして、この結末は納得せざるを得ないものです。また、芸術に価値を見いだせない人がいることも事実で、そういう人にとっては芸術と暴力の立ち位置は正反対のものとなることでしょう。
しかし、結局、そのどちらにしても、芸術と暴力を対立するものとして捉えているということには変わりがないわけです。
ところが。
今作では、なんと芸術と暴力は対立しません。
芸術は芸術として、暴力は暴力として厳然としてひとりの人間の中にあり、それは寄り添い互いを支え合うことで共存してしまうのです。
トラウデが執拗なまでにジェニーの暴力性を否定し、ドイツの伝統と歴史の具現であるクラシックを唯一の音楽として強調します。
それに対し、ときにはジェニーは従順にピアノを弾きます。しかし、ときにはクラシック以外の曲を奏でるときもあります。トラウデはそれを許しません。ジェニーの頬を張り、「下劣な音楽」だと責め立てます。
ジェニーは、それに対し、「私の音楽だ」と言い張ります。
そして。
コンテストのステージ。
ラスト4分の演奏。
そこで、ジェニーの音楽が炸裂します。
芸術と暴力、そのふたつが共存し、互いに手を取り合うことで生まれた新たなる音楽。
ジェニーの魂の形そのものであるかのような、荒々しくも繊細な叫び。
あれは是非とも実際に聞いてもらいたいところです。
すばらしくて鳥肌が立ちました。
ただ、最後のスタンディングオベーションだけはいただけない。
あれは不要でしょう。どう考えても。
だって、観客の誰もが演奏中は唖然とするか不審な表情をしてたのに。
現に、クラシックの信奉者であるトラウデは、ジェニーの演奏を聞いてワインがぶ飲みよ? 飲まなきゃやってらんない、といわんばかりのあの態度。
観客の全部が全部トラウデと同じだとは思わないけど、コンテストに足を運ぶような人ってのは、やはりトラウデと似たような感性を持った人の方が多いと思うんですよね。それなのに、会場中がみんなしてスタンディングオベーション。
ええー。
あそこは、会場に居並ぶ人びとの唖然とした表情、冷ややかな視線、不審のざわめきの中、唯一ジェニーという人間を知っているトラウデが「それは私の音楽ではないけれど、あなたの音楽はそれなのね」と言わんばかりの微かな苦笑を浮かべ、ステージのジェニーを見つめる。ジェニーはコンテストであることも会場を埋め尽くす人びとも駆け寄る警察も意に介さず、ただトラウデを見つめ、「これが私の音楽なのよ」と不適にほほえみ、優雅に頭を下げる、という終わり方で充分だった。
世間の評価なんていらない。
ジェニーの音楽を評価できるのは、ジェニーという人間をずっと見てきて、教えてきて、知っていて、わずかでも心を通わせた唯一の人間、トラウデだけ。
ジェニーはそのことを痛いほどよく知っているから、トラウデに感謝と敬意を見せた。
作中、トラウデが幼い子どもに「お辞儀はできるようになった?」と問いかけるのを聞き、「あんたは私にもお辞儀をさせたいの?」「私は絶対にお辞儀なんてしない」と鼻で笑っていたジェニーが。
深々と。
頭を下げるんだよ?
それだけで充分でしょうに。
誰かに認めてもらわなくてはいけない、最後は成功しなければならない、という、アメリカンな毒に侵されているとしか思えない演出でした。
4分間のピアニスト
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