監督:ニール・アームフィールド
2005年 / オーストラリア

刹那的な愛の楽園に生きるキャンディとダン。画家と詩人になることを夢見ながらも、セックスとドラッグに溺れて、愛し合い傷つけ合うふたり。しかし、キャンディに小さな生命が宿ると、ふたりはそれまでの無計画な生活を捨て、厳しい中毒の後遺症と闘いながら、試練を克服していく。すべてはしあわせな日々を勝ち取るために……。
この作品は三部構成となっています。
天国、地上、地獄と簡潔に記されたその章構成は、キャンディとダンの関係を端的に表しています。
ドラッグとセックスにおぼれ、刹那的ではあるが最高の快楽にまみれていたふたり、結婚、妊娠を通じ地に足のついた生活を願うふたり、希望を失い、ただただ惰性で過ごすふたり、そして──。
こうして字にしてみると、最低な若者の最低な生き方を綴っただけに見えますが、それはとんでもない間違いです。
これはとてつもないラブストーリーでした。
というか、神話だと思いました。根拠も理由もないんですけど。ただ、あるシーンを見たとき、ふっと分かったんです。
「ああ、これは愛についての神話だったのだ」って。
昔むかし、キャンディとダンがいた
あの年はすべてが熱く、ロウは木々の中で溶け、彼は彼女のためになんでもやろうとした──
キャンディが精神を病み、家の壁中にふたりの物語を書き殴る。ダンはそれを見つけて嘆き、それを消そうと試みる。しかし、やがてそれも諦め、ダンはヘロインの恍惚へと逃げ込んでしまう。
この一連のシーンが、この作品を愛の神話だと感じた部分でした。
現在がどうであろうと、ふたりが熱烈に、身も世もなく愛し合ったという事実は消えません。
どんなに洗剤を使って一生懸命こすっても、決して消えません。それどころか、消そうとすればするほど、それは強固なシミとなって残るのです。もはや判読もつかないような、ただのシミとして。
一生背負わなければならんのです。
形も意味も失って、それでも、ずっと。
愛は驚喜。
愛は驚喜。
愛は凶器。
愛は狂気。
そのどれもが正しくて、どれもが正しくない。
愛は、ただ胸の内に巣喰うのみ、です。
candy
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