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平田オリザ / 講談社

若き天才が全て明かす「芝居作りの技術」。シェイクスピアはなぜ四世紀にわたって人気なのか? 日本で対話劇が成立しづらいのはなぜか? 戯曲の構造、演技・演出の方法を平易に解説する画期的演劇入門書!(『演劇入門』)

自分を把握し、他人とイメージを共有する、画期的な演劇入門! 現代演劇の旗手が公開する芝居のメカニズム台詞を自然体で話すコツとは? 俳優陣と演出家がイメージを共有する方法とは? 演劇的な感動はどうやって起きるか? 世界に広まる平田メソッドをわかりやすく説く。(『演技と演出』)




『幕があがる』の影響なのか、この二冊が安くなっていたのでまとめて買ってしまいました。

芝居は見るだけで演じることには興味がないのでどうなのかな、と思ったんですが、なるほどどうしてすごくおもしろかったです。

演劇に限らず、映画やテレビドラマなどを見ていて、どうしても気になるのが役者の巧拙です。まぁ、芝居の最前線というか矢面に立っているので当然なのですが、では、この役者の上手い下手というのは、一体なんなのでしょう。
見ていりゃ上手い役者と下手な役者というのは一目瞭然なわけですが、なにがその「上手い・下手」を左右するのか、はなかなか言葉にはできません。

平田オリザは、それをコンテクストを広げられるかどうかだ、と言っています。
ここで言うコンテクストとは、言葉本来の意味の「文脈」とはまた少し違っていて、理解してしまえばそんなに難しいことではないのですが、一言で言い表すのは難しい。

本書の中では、電車に偶然乗り合わせた乗客が「旅行ですか?」と声をかけるという場面を例に出し、このコンテクストについて説明しています。
高校生対象のワークショップを行ったとき、この「旅行ですか?」という単純な台詞を言うことができなかったそうです。
日常生活の中で「旅行ですか?」という台詞を言ったことがないので、この言葉が出てくる状況、どういった意味や意図を持ってこの言葉を口にするのか、といったことがわからないというのがその理由でした。
わからないからできない、というほど極端ではなくても、わからないから戸惑ってしまう、という程度の違和感だそうですが、その程度の違和感が演技の邪魔になる、と。
この、台詞そのものではなく、台詞に込められた文脈をコンテクストと表現しています。

また、もう一つの例として、「マクドナルドに寄って行こう」という台詞も挙げられていました。
単純な台詞です。難しいことはありません。
しかも、先ほどとは違いマクドナルドに行ったことのない高校生はほとんどいません。
なのに言えない。
何故か。
それは、普段誰もマクドナルドのことを「マクドナルド」とは呼ばないからです。
そこで「マクドナルド」を「マック」に替えたところ、すらすらと台詞を言えるようになったということです。
こうした文化や習慣もコンテクストの一種となります。
この、非常に些細だけれど、確実にそこにあるズレに気がつかないと、芝居はどうしても上手くいかないのだそうです。
そのほかにも、言葉で言えばイントネーションや語尾、単語の言い方などなど、方言といった地域差や、国語教育といった年代差も影響してきます。
厄介なことに、このズレは非常に些細でしかも単純であるがゆえに、とても気がつきにくい。
演出家はこんな簡単な台詞がなぜ言えないんだと怒りを爆発させ、役者はどうして言えないのかわからない。
このコンテクストのズレを認識するためには、コンテクストの存在を意識的に考えることと十分なコミュニケーションが必要なのだそうです。

コンテクストは、経験や文化、習慣といったものに限らず、身体的な領域にも及びます。
たとえば南国に生まれた人は雪かきの動作を自然には行えないし、現代に生きる我々は大小の刀を腰に差して自然には歩けません。

なんだかコンテクストの話ばかりになってしまいましたが、要するに演技の上手い役者というのは、自分の中にあるコンテクストを、与えられた役に合うように拡張してやることで自然な演技のできる人だ、ということなのです。
つまり、あの役者はどんな役を演じてもその役にしか見えない、役によって別人のように振る舞える、というのが、上手い役者だということですね。
それでいくと、がんばってはいるけれどその役には見えない、どんな役を演じていても「役者」本人にしか見えないというのが下手な役者ということになりますかね。
個人的には、この定義は非常に納得できますし、その理由をはじめてはっきりと理解できたような気になりました。納得納得。おもしろい。

芝居に限ったことじゃなく、日常の中でも役に立ちます。
どうしてこの人とは話が合わないんだろう……と思ったとき、コンテクストを意識することでなにがズレているのかを理解できるかもしれません。

このコンテクストという観点を意識すると、演劇における「リアル」についても非常にクリアに見えてきます。
「わざとらしい」下手な脚本と、「わざとらしくない」上手い脚本の違いはどこにあるのか。
人それぞれが異なるコンテクストを持っている中で、脚本家が自分のコンテクストを演じる側と見る側に押し付けてくるのが「わざとらしい」脚本。
それは、幕が開いて、いきなり「やっぱり美術館はいいなぁ」とか言わせちゃう脚本。
上手い脚本は遠回りすることで、互いのコンテクストをすり合わせ共有した上で「美術館はいいなぁ」に持っていく。
それには、美術館からイメージされるものを列挙し、その中から遠いイメージから情報を開陳していく方法が良いのだという。

静かな空間にデートのカップルが登場する。
「たまにはこういうとこもいいでしょ」
「まぁね」
「たまにはゆっくりしないと」
「うん」

ここまできたら絵の話をしてみる。

「さっきの絵、意外と大きかったね」

すると、この流れで「やっぱり美術館はいいなぁ」と言ったところで説明臭さはほとんどなく、わざとらしさも感じない。
これは、「登場人物が美術館にいる」という脚本家が理解していることを、いきなりどんと観客に押し付けるか、少しづつ「登場人物が美術館にいる」というイメージを共有していくか、の違いであって、つまりそれがコンテクストのすり合わせと共有ということなんですね。
これは芝居に限ったことじゃなく、おそらく日常のどんな場面にも応用の利くことですよね。

芝居になんか興味ないよ、という人でも、読んでみる価値はあると思います。
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