古川日出男 / 集英社

無人島に漂着し2人きりで生活していた少年トウタと少女ヒツジコは、2年後に大人達の手で救助され、その後別々の家族の元で人生を歩むことに。
2009年、ヒートアイランド化&多国籍化した東京。それぞれの場所、それぞれのやり方で世界と対決するトウタとヒツジコ。そして少女レニとカラスのクロイ。
近未来を疾駆する若者たちのボーイ・ミーツ・ガール。
なんじゃこりゃ、というのが読み終えたいまの感想です。
なんだこれ。
冒頭から始まる無人島でのサバイバル描写にぐっと惹かれて読み進めていくと、徐々に違和感を覚えるようになります。そして中盤から物語は暴走を始め、抽象と具象の入り交じった混沌を経、終盤にて大カタルシスを迎えます。収拾されることを放棄された物語は、それ自身が語られることで加熱を繰り返します。
そう。この作品を語る上で外せないのが文体。
すごく独特のリズムを持っていて、とても音楽的。読んでいると、どんどん引き込まれてしまいます。
僕はこのリズミカルな、まるでヒツジコのダンスでありレニの映画そのものでもあるような文体がすごく気に入りましたが、おそらく拒絶反応を示す人も大勢いるのだろうなぁ、と思います。
文章なんですけど、文字で構成されているというより、音で構成されている、というか。元々音であったものを文字として再構成している?
あ、そう、舞踊譜。三次元の踊りを譜面として表した舞踊譜というものがあるそうなのですが、その感覚に近い。テンポの問題なのだろうか。うーん、この感覚をうまく表現する語彙を持たない自分が歯痒い。
物語の暴走、軌道の歪みは果てしないのですが、この作品はそれをものともしないほどの力がありました。
ここで語られる少年少女の呼吸と、この独特の文体がぴったりマッチしていて。
人間を、ひいてはその人間の属する社会をも連鎖的に崩壊させてしまうヒツジコの踊り。
人間どころかカラスをも魅了し、防御から転じて攻撃にもなりうるレニの映画。
具体的に思い描くことのできない、抽象的にすぎるそれらの存在が、音であるはずの文章と呼応して説得力を顕現させるのです。
この物語に登場する若者は、みな、音を必要としません。
ヒツジコは言外のコミュニケーションとして、自分の身体を内側から揺さぶり、世界をもその揺れに巻き込むためのコミュニケーション・ツールとして踊ります。
レニはカラスを魅了し癒やし幻惑するために、純粋な映像としての映像、サイレンス映画を撮り続けます。
そして、幼少時の烈しい体験のために、自らの内で音楽が死んでしまったトウタ。
言葉を排し音声を排し音楽を排した若者達の物語が、音そのもので紡がれる不思議。違和感。それがおもしろい。
……ああ、やっぱりうまいこと表現できないなぁ。
まったく先の読めない物語でした。
読み進めていっても、ラストがまったく見えない。どこまで行っても見えない。そして辿り着いたラストシーン。ぴりっと来ました。あ、なるほど、と感嘆。
不慮の事故で出会った二人が、今度は自らの意志を介在させて出会う。かもしれない。そういうシーン。
ボーイ・ミーツ・ガールか!
読み終えてから『STUDIO VOICE』の紹介記事を見返したら、ちゃんとそう書いてありました。これを読んで興味を持ったはずなのにすっかり忘れてた。
あと、これは物語とはまったく関係ないのですが、カラスが出てくるんですよ。きちんと意思の疎通が図れる。しかも、肩に止まっちゃったりする、カラスが。
『風神秘抄』ラジオドラマが終了したばかりで、鳥彦王にハァハァしていた直後だったので、この不思議な符丁に興奮しました。偶然は来るべきときに来ると必然となるのだなぁ、と、ちょっと、感じました。