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伊藤計劃 / 早川書房

『伊藤計劃記録』及び『伊藤計劃記録:第弐位相』から、創作に当たるものを抜粋・再編集した短編集。

表題作である「The Indifference Engine」は、巻末の解説にもあるとおり、徹頭徹尾「個」にとっての戦争の物語でした。戦争――そして少年兵の。
否応なく戦争に巻き込まれ、少年兵となる以外の選択肢は存在せず、戦争の中でしか生きられない子どもたち。この作品を読んでいると、打海文三の「裸者と裸者」シリーズを思い出します。
戦争という日常の中で生きる子どもたちの物語。これは現代日本に生きる我々にとっては紛うことなき悲劇であり狂気ですが、いま現在、それが日常であり当たり前である世界もまた、同時に存在するのだという事実、そして我々もそうした現実にいつでも吞み込まれる可能性があることを思い知らされます。
なぜなら、ここに描かれる戦争は、正義・大義名分・国家間のパワーバランスなどに彩られたものではなく、あくまでも「個」に特化しているからです。
もしも同じ状況下に置かれたら――女という女はすべて犯し殺され、男という男は殺し捨てられ、故郷のすべてを焼き払われた後、自分の手に武器があったなら――、同じことを思い、感じ、行動するかもしれない。それは何ら特殊なことではなく、人間が人間であるが故に必然的に発生する感情でしかないからです。
人間性が人間性を否定する。
ひどい矛盾ですが、矛盾のない人間なんてどこにもいないし、こうした矛盾は人間が人間であることに根ざしたものなので、根本的な解決策はどこにも存在しません。この矛盾をいかにして吞み込むのか、が、物語のおもしろさの重要なファクターのひとつなのだと思います。こうした矛盾をはらんだおもしろさは、戦争という極限状況に限らず、同性愛にも通ずるところがあるのですが、まぁ、それはまた別の機会に。

さて、この作品では、この矛盾を解消する方法として、タイトルとなっている「公平化機関(インディファレンス・エンジン)」と呼ばれる処置が登場します。この設定が実に秀逸。戦争と少年兵の物語のうまみを良く引き出しつつ、さらにもう一味違ったおもしろさを加えるスパイスとなっています。
平等・博愛主義の行き着く先、それらがはらむ醜悪さと愚かさ。平等・博愛などといった考え方などは、欺瞞と傲慢に満ちたエゴイズムです。
自分が手にしているものがエゴであることを自覚している限りにおいて、それは善意となり得ますが、盲信者のそれは単純な悪意よりもたちが悪い。その不気味さといったら、もう! 怖気をふるいます。
これだけのものを持った作品が、ほんの60ページの短編なんですからね。ため息がもれてしまいます。

また、「フォックスの葬送」。
これはメタルギアソリッドというゲームを基にした短編ということで、作中にゲームの設定やストーリーを盛り込んだ記述が多々出てきます。僕はそのゲームのことを知らないのですが、それでもきちんと読めてしまうどころか、すごくおもしろいと感じます。
なにも知らない読者に、説明するのではなく匂わせることでバックボーンの大本を理解させ、物語に引き込んでしまう。この文章構成力の高さとストーリーテリングの巧さ! 自分からは絶対に手を出すことのない類のものですが、このゲームをやってみたいかも、と思ってしまいました。

そして「From the Nothing, With Love.」。
傑作でした。
もう、すごいの一言に尽きる。
脳をコンピュータ、人格をプログラムとみなし、別人の脳にある人物の人格をインストールする。
ネタ自体はたとえば『多重人格探偵サイコ』や『からくりサーカス』などにも見られるんですが、この作品のすごいところは、意識そのものに焦点を当てていることでしょう。
人格をインストールされた人物を第三者が観察するのではなく、インストールされた人格が主体となって物語を紡ぐことで、“「意識」とはなにで、どこにあるのか”という命題が浮上する。

小林めぐみの「極東少年」シリーズでは、形も存在もまったく違うけれど、不老不死のひとつの形態として「神霊ナミ」という存在が描かれる。作中でナミ本人だったかそれ以外の人物だったかは忘れましたが、ナミを「現象」だと定義します(多分)。意識だけの存在であり、誰かに憑依することでしか存在を顕せないナミは、生命というよりも、ただの現象なのだ、と。

また、物語ではありませんが、数年前にベストセラーとなった『生物と無生物のあいだ』では、生命というのは現象だ、と述べられていました(多分)。
一年前と今日とでは、身体を構成する細胞はひとつとして同じものはない。けれど、「私」は変わらずにずっと存在し続けている。生命とは身体や脳に宿るものなのではなく、こうした入れ替わり・代謝の上に立ち現れる現象なのだ、と。

「極東少年」も『生物と無生物のあいだ』も、読んでからずいぶん時が経っているのでもしかしたら記憶違いの部分があるかもしれませんが、とにかく、今作は「生命とは現象である」という点を、今度は純粋無垢なるSF的視点から語るということに成功しています。
より正確に言うならば、作中では「私の意識だった存在――いや、現象、を。」とつづられているのであり、生命とは現象である、とは書かれていないのですが、ここでいう意識≒生命と言い換えてしまっても問題はないと思います。
なぜなら、ここでいう意識とは、他人の脳にインストールされた人格プログラムのことであり、その人物の身体が朽ちてもなお、「生きて」いるからです。
しかしながら、ここは「≒」であって、決して「=」ではないことにも注意が必要です。
ネタバレになってしまいますが、この物語は身体と意識のどちらに生命が宿るのか、というようなお話ではなく、意識を喪失してもなお、それは生命足り得るのか、ということを描いた物語であるからです。

なんだかSF小説の感想のはずが哲学じみてしまいましたが、もともとSFとはこのような性格を多分に含んだジャンルですのでね。
あまり難しく考えすぎるのもどうかという気もします。超いまさらですが。


と、いうわけで『The Indifference Engine』でした。
いま無性に『虐殺器官』と『ハーモニー』を再読したいです。
1日が30時間あって、6時間を読書にあてられたらいいのに
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