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夢枕獏 / 早川書房

あらゆるものを螺旋として捉え、それを集め求める螺旋蒐集家は、新宿のとあるビルにm現実には存在しない螺旋階段を幻視した。肺を病む岩手の詩人は、北上高地の斜面に、彼にしか見えない巨大なオウム貝の幻を見た。それぞれの螺旋にひきこまれたふたりは、混沌の中でおのれの修羅と対峙する……ベストセラー作家、夢枕獏が仏教の宇宙観をもとに進化と宇宙の謎を解き明かした空前絶後の物語。(上巻)


人は、幸福せになれるのですか?
野に咲く花は幸福せであろうか?
――螺旋蒐集家と岩手の詩人、二つの孤独な魂から成る人間、アシュビンは、いくつもの問を胸に、果てしなく高い山を登りつづけていた。長い修羅の旅を経て、彼がその答にたどりついたとき、世界を驚嘆させるなにかが起きる……進化とは? 宇宙とは? 人間とは? 究極の問に対する答を破天荒な構成と筆致で描きあげた、これは、天についての物語である。(下巻)

ずっと前から読んでみたくて、でも図書館には置いてなくて、リクエストすればよかったんだろうけどきちんと期間内に読み切れるか不安で。
だって進化と宇宙の謎を仏教で読み解いたSF作品ですよ。じっくり噛んで含めるように読まなければ理解できないような気がしていて。
ようやく手に入れて読みました。
すげえ。

まず、「螺旋」というアイディアがすごい。
はじめは、「螺旋蒐集家」という言葉の奇異さと「螺旋」に拘泥し続ける文章がくどくもあり奇妙にも感じられたのですが、読み進めていくうちにこの「螺旋」というアイディアの強固さがあきらかになってきます。
基本的に同じものの反復でありながら、同じ場所ではなく常に位置を変え続ける。
この螺旋の性質が、宇宙、進化、世界の謎、そして主人公が対面することとなる究極の問いへとつながっていきます。
なんてすばらしい構成なのでしょう。
舌を巻いてしまいます。

究極の問とは、「問と答とが同じもの」であり、「ひとつめの問と、ふたつめの問とは、違うようでいて、実は、本質的に同じ問であり、ひとつめの問の答と、ふたつめの問の答も、違うようでいて、実は、本質的には同じ答である」のだといいます。
その「ひとつめの問」は、物語序盤で早々に明かされます。
汝は何者であるか?

しかしその問に対する答は最後まで示されず、読者は主人公とともにその問に向き合うこととなります。
その過程ではさまざまなロジックが現れ、仏教的世界観による道筋が示されます。
中でも、
正しい問の中には、すでに答が含まれているからである。

という文言がすばらしかった。
観念的になってしまう問と答を、この文言が非常にわかりやすくしてくれています。
それはどういうことかというと。
物語の中で、こう例示されています。
"七足す三"という問と、"一〇"という答とは、まさしく同じものなのだ。問の中に答があるというのは、そのような意味なのである。

うん。わかりやすい。
そうすると、この物語における究極の問と答の正体もおぼろげながら見えてきます。
私は私であり、私は進化であり、私は宇宙であり、私は問であり、問は答であり、私は答であるが故に問わない。
抜き出して書いてみるとなに言ってんのかわかんないですが、この作品を読んでいる分においてはなんの矛盾も不思議もなく納得できてしまうんです。
物語の力、を感じます。

以前『百億の昼と千億の夜』の感想で、東洋哲学で編まれたものが読みたいという思いがあったと書きましたが、この作品と比べると『百億』はまた違いますね。
こちらの方が濃厚。むせかえりそうになりますよ。
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